分からないことを分からないと言えること

子供の頃、よく親や親戚から「生意気だ」と言われていた。子供のくせに大人と同じようにモノを言うのが気に食わない、とも。

()を使って補足すると、

(何も知らない)子供のくせに、(子供よりうんと人生経験を重ねている大人に向かって)大人と同じようにモノを言うのが気に食わなかった、といったところだろうか。

確かに、成人した私も子供から同じ目線でモノを言われたら多少は腹が立つかもしれない。でも、生意気とは思わない。誰の影響でそういう物言いになったの?という興味が先行する。とは言え、自分の子供だったらそうもいかないのかもしれないが。

 

おぼろげな記憶であるが、「生意気だ」と称される際、私はもれなく大人を質問攻めにしていた。

「どうして午前と午後があるの?意味あるの?」「どうして結婚するの?どうして結婚しないの?」「どうして一週間は七日なの?」……そんなことをひっきりなしに聞いてくる子供は、確かに生意気という言葉で丸め込むしかなかったのかもしれない。いくつになっても分からないことはある。でも大人が「分からない」と言ったら、子供は「なんで分からないの」と言ってしまう。そして質問のループが延々と続いていくのだ。

では、大人はどうしたら良かったのか。

「この本で調べなさい」と適当な本を渡すか、「一緒に調べよう」といってネットで検索をするのが現実的かなと私は思う。

 

さて、「生意気だ」という言葉の意味を理解し始めた私は、優等生方面へとシフトした。このままでは大人に嫌われてしまうと気付いたのだ。子供にとって大人――親や先生は神様みたいなものだ。神様に嫌われたら生きていけない。

私の思う優等生――物分かりがよく、面倒な質問をしてこない子供は、もれなく大人から気に入られた。勉強やスポーツが人並みやそれ以下でも、日々の振る舞いだけで信頼を集めた。先生に叱られる同級生を見て、親からの口出しに反抗する兄弟を見て、優等生でよかった、と生意気にも思っていたし、持て囃される自分のことも嫌いではなかった。

 

優等生の私は思春期を迎え、高校受験、大学受験をパスし、就職活動を始める年になった。

 

そこで最大の挫折感を味わうこととなる。

 

書類選考はもれなく通るし、面接も途中までは進む。でも、いつも最終面接で落ちるのだ。

今になって気付くが、私は無意識の内に「模範的な就活生」を演じていた。そのせいだと思う。

幼い頃に生意気な自分から脱却するために、優等生を目指したのと同じだった。

優等生は物分かりが良く大人に手間をかけさせない。だから、例え理解が及んでなくても一度の説明で全部分かったように振る舞う。

模範的な就活生は業界や業種のことをよく理解している。だから、面接官の口から分からない用語が出てきても、知っているような顔をしなければならない。それに、何か質問されても用意してきた言葉を暗唱して、隙を見せない。就活サイトのコラムにあった、よくある質問100選みたいなのを片っ端から見て、律儀に答えを用意していた。

分からないことを分からないと言えないようにした。

案外人は自分以外の人間を演じられる。でも、それではボロが出る。

それは、私のちっぽけなプライドのせいでもあった。物分かりのいい優等生人生が長すぎて、分からない自分を認めたくなかった。分からないことは恥ずかしいことだと心底信じていた。分からないことが無い人間なんてどこにもいないはずなのに。

模範的で全てを見知っている風な人間と、働きたいと思う物好きがどこにいるというのだ。私を落とした面接官の審美眼は間違いなかった。

 

そんな私でもどうにか内定を頂き、大学を卒業した。

就職してからは、一層分からないことだらけだった。と言うより、分からないことしかなかった。業界の知識、仕事のマナー、人間関係、分からないことまみれだ。そんな時に、私は「分からない」と言えなかった。言えばよかったのに、言えなかった。今まで「分からない」と言う経験を積んでこなかったから。しょうもないプライドが私の口を塞いで、一年目は苦しかった。

そんな社会人一年目を終えた私に転機が訪れる。転勤だ。

転勤後は、それまでとはガラっと違う仕事を任されるようになった。非常に緊張したが、職場のメンバーは私を完全なビギナーとして受け入てくれたため、あちらから「分からないことはない?」と聞いてくれたのだ。これが本当私にはありがたかった。私の質問にとことん付き合ってくれた。その場で質問に答えてくれたのは勿論、後から「さっきの補足なんだけど……」と参考資料を見せてくれたりもした。

そして、「こういうことで合ってますか?」とか「前回こう教えてもらいましたが、今回の場合はこうですか?」と私が確認すると、「そうそう!よく分かったね」とあたたかく褒めてくれた。こうして書いてみると、本当に恵まれていたと思う。私の最初の社会人生活で一番充実した一年だった。周囲のお蔭で知識もどんどん増えて、自信もついた。何より、分からないことを分からないと言えるようになった。

 

コミュニケーションだって同じだ。

初対面の相手と膝を突き合わせて話すとき、相手の経歴や考えを訊いて、その人となりを知っていく。相手の言葉を聞いて、分からないことがあれば「それは何ですか?」と訊いてみる。「こういうことですか?」と確認してみる。そうすると、相手はより掘り下げて話してくれる。

逆に、私が私の話をするとき、相手から「どうしてそういう選択をしたの?」と訊かれたって嫌な気持ちはしない。具体的に話して、それで相手が「なるほど!」と納得してくれるとすごく嬉しくなる。「むしろ、こういう道もあったんじゃないの?」と返しもらえるのも面白い。自分の視野が広がるのは楽しい。「確かに」と頷くもよし、「いや、私が言いたかったのは……」と言葉を選び直すのもよし。

ところが、「全て分かってますよ」という顔をされたらどうだろう。気味が悪いし、こっちに興味が無いのかなとも思う。コミュニケーションは掘り下げてナンボ。日本史の一問一答じゃあるまいし、一つひとつのことを掘って相手を知る方が面白いし、お互いストレスフリーだ。

 

仕事の話に戻ろう。仮に教える立場になったとしても、「分からない」と言ってもらえる方がよっぽど安心する。もちろん、忙しくて丁寧に教えることが叶わないこともあるだろう。それでも、全く教えずに放置したら、訊いた側は勝手に判断して行動してしまう。そのリカバリーをする手間を考えたら、教えることなんてお安い御用だ。

分からないことは劣っていることではない。分からないのは当たり前。

でも、「分からない」を重ねれば重ねるほど、自分が豊かになる。

新しい職場では「質問の鬼」とでも呼ばれるくらいの質問芸人を目指したい。